2014年11月14日 第1回、国主催「過労死等防止対策推進シンポジウム」
生きた証を教訓に、いまある命を守りたい!
寺西 笑子 全国過労死を考える家族の会
私の夫は、1996年2月15日投身自殺しました。49歳でした。京都市内に7店舗の飲食店を経営する会社に調理師として17年、筆頭店の店長として3年働いてきました。20年間、朝から夜遅くまで働きどおしだった夫は「飲食店は忙しいのが当たり前、この忙しさが腕を育ててくれる」と、愚痴をこぼさず、しんどさを遣り甲斐にかえて会社の言うとおり無理難題に応えて実績を積み上げてきました。店長へ昇格した平成4年は、バブル経済崩壊後による平成不況のあおりを受け業績が落ち込みました。世の中不況一色のなか、業界の生き残りを賭け会社から達成困難な右肩上がりのノルマを課せられました。サポート体制がないなか人件費を削減の穴埋めをし、これまでなかった他店の仕入れ管理や宴会客の営業セールスまで命じられました。それを聞いたとき、職人気質の夫がいちばん苦手でやりたくない仕事をやらされて可哀そうと思いました。亡くなる一年前の労働時間数は4,000時間以上に及び、限界を超えた長時間過重労働を強いられました。夫は身を粉にして必死の努力で働き、業績は一定回復しましたが、会社が命じた右肩上がりには届かず、社長から連日呼び出されて過度の責を受け、あげくに不本意な異動を言い渡されました。夫は、眠れない、食べられないと訴えましたが仕事量は軽減されず身も心も壊れてうつ病を発症し二か月後に投身自殺を図りました。
当時は過労自死の認定基準はなく自死は認定されない時代でしたが、このまま泣き寝入りしたのでは真面目に働いた夫は浮かばれないと思い、労災認定の壁は高くとも、裁判の道のりはイバラの道であっても、一生懸命に働いた夫の生きた証を何としても立てたいと決意しました。無我夢中の10年が過ぎ、真相は解明され夫の自死は労災認定されました。大阪高裁で会社の謝罪を受け、名誉回復しましたが、夫は二度と生きて返ってくることはありません。命を救えなかった悔しさが、胸の奥深く刻み込まれています。どうすれば死なずにすんだのかを考え行動していくことが私の生きてゆくテーマになりました。
過労死防止法運動は全国から55万人以上の皆様の後押しがあって国会へ遺族の声を届けることができました。遺族の声を受け止めてくださった超党派議員のご尽力を得て全会派一致で成立することができました。これからは政府の皆様と手を携え、過労死のない社会づくりを考えて行けることに期待しています。私たちは、理不尽に命を奪われた家族の声なきメッセージを伝え、亡くなった命を無駄にせず生きた証を教訓にして過労死防止対策に活かして頂けるよう励みます。本日のシンポジウムが過労死のない社会につながり、過労死防止法が今ある命を守れる法律になることを願ってやみません。
長時間労働をなくすための実効ある具体策を!
安井 敏一 大阪家族の会
私の息子は、一昨年の11月に35歳の働き盛りの若さで突然死をしました。息子は結婚をして家庭も持っていました。普段は元気で明るく、優しい性格の息子でした。私の妻や、息子の妻は、そのショックで、いまだに一人では、遠出ができない状態が続いています。
息子は、行政解剖の結果、突発性不整脈による心臓停止いわゆる突然死でした。その折、解剖を担当していただいた医師から、最近20代、30代の働き盛りの若者に多発しているということや、その原因に過労による精神的、肉体的ストレスが含まれているということを聞かされました。
まさに息子は、この間、そういう状態に置かれていました。息子の勤めていたのは、大手住宅会社の営業職でした。入社して5年になっていましたが、当時から自宅を7時過ぎに出て、会社を出るのは12時前後という、1日15時間の長時間勤務が常態化していました。また営業のため、1日の車での移動に200キロを超えることがよくあったといっていました。そのうえ、販売成績が落ちると、会社責任者から成果を上げることを強く求められ、週休日の日でもメールで「休むな」という指示が入り、休みもまともに取れない状態でした。死ぬ3か月前に息子と会った時には、笑顔も消えていました。しかし、息子は、「この会社の住宅は良いので、お客に進め甲斐がある」と言って、意欲を持って頑張っていました。それだけに息子の死がやりきれなく、胸が痛みます。
昨年、労働基準監督署より労働災害の認定がありましたが、息子はもう2度と戻りません。この間、私たちの周りには、同じような過労による突然死や、自死の事例が多くあることがわかりました。しかし、ほとんどは、本人責任にされ泣き寝入りが多いと言っています。最近では、これまで比較的労働時間が守られてきた公務員の職場においても、長時間労働による過労死が起こっています。今は、働くもの、特に若者は、すべての分野において、長時間労働が常態化する異常な労働条件のもとにおかれているのではないでしょうか。
日本の過労死は、国連でも大きな問題になっています。働くものの命を奪うことは、親や、妻、子供、友人などすべての関係する人々に深い悲しみを与え、家族の生活も奪うこととなります。
現代のように発達した社会において、手塩にかけて育ててきた、愛する子供が、働かされすぎによって、親より先に命を落とすような悲劇は絶対にあってはなりません。このたび、全会一致で「過労死等防止対策推進法」が成立し、その具体化が図られようとしています。ここで、あらためて働くものの命を何よりも大切にするための実効ある具体的対策を講じていただけますよう強くお願いいたします。
子どもたちの明るい未来のための過労死防止法
内野 博子 名古屋家族の会
2002年2月9日土曜日の早朝、夫は工場の夜間勤務の定時である1時を3時間以上過ぎた4時半ごろ、上司と残業中に突然心臓が止まって倒れました。輸出が伸びて残業が増え、休みもとれない状態が半年以上続いて疲労が蓄積していた中、当日は品質物流課の班長としてトラブル対応などをして、その結果を申し送り帳にまとめていた時でした。上司は気が動転し、何の応急措置もしないまま工場の私設救急車を呼びにその場を離れました。そしてやって来た救急車、見た目は立派だが単なる運搬車で脈もとらないまま私設病院へ運ばれた時には夫は心肺停止、そのまま30才の若さで亡くなりました。
私は1才と3才の子どもと遺されて呆然としましたが、立ち止まったらこの子達は死んでしまう!という思いで、今日まで必死で生きてきました。夫は持病もなくお酒も飲まず優しい人でしたが、だんだん笑顔が減り趣味の時間も減りました。仕事が原因で死んだのに違いない、その努力を認めてあげないと可哀想、そんな思いで労災申請をしました。けれども労基署では不支給決定になり、審査請求も棄却。信じられませんでした。その後も仕事と子育てをしながら、再審査請求をしたり、同時に行政訴訟を進めていくのは本当に大変でした。
ようやく名古屋地裁で勝ったのは2007年。国は控訴せず、舛添厚生労働省大臣にお礼がてら面会して、労働時間の計算の問題点を正していただき、正式に労災決定を受けたのは2008年春。夫が亡くなってから実に6年もたった時でした。会社では「自主活動」とされていた「QCサークル」や「創意くふう提案」などの「カイゼン活動」を裁判では「仕事」だと認められたため、会社も社内ルールを一部見直し、社内でのQCサークル活動には賃金を払うようになりました。夫と私の努力がようやく少し報われた気がしました。
けれども過労死はなくなりません。現在、私は地元で再び起きてしまった悲しい過労死の事案の相談を3つ受けています。私も含め、遺された奥様や子どもたちは、一瞬で全く違う人生を歩むことになってしまいました。どうにか事前に防げないのでしょうか。
そんな思いで、3年前から過労死防止法の成立のために院内集会に参加したり、地元でできることをしてきました。ママ友たちに過労死遺族である事をカミングアウトして、署名を集めました。地元の議員に何度も話をした結果、超党派の議員連盟に入って下さいました。安城市議の方々にも説明をし、国への意見書を全会一致で出していただきました。ですから、参議院本会議で可決された瞬間、夫の指輪に触れながら傍聴席から見ていましたが、「子どもたちの明るい未来につながる法律ができた!」という嬉しい思いで、涙があふれてきました。
企業は利益を追求するための働き方を求めますが、人間はロボットや歯車ではありません。ハンドルに遊びがあるように人間にもゆとりや遊びが必要で、それがないと健康的に生きられず心身を壊します。人間の生理活動に反する夜間勤務もできる限りなくして欲しい。過労死大国日本から脱して、心身ともに健康でハッピーな国になれるよう、この法律のもと、一人一人が意識できるように私も声を上げ続けていきたいです。
「過労死等防止対策推進」実効性あるものに
古川 美恵子 東京家族の会
飲食店の店長をしていた息子が、2010年11月、24歳という若さで自ら命を絶ちました。突然のことで驚きとショック、何とも言われぬ恐怖は今でも鮮明に記憶しています。
私たちは、息子が亡くなる理由がわからず、社長や上司に説明を聞きに行きましたが、納得いく答えは得られませんでした。ただ、あまり休日もなく過重労働をしていたようようなので、過労死ではないかと疑い、会社側の緘口令がだされた中、精神的に大変でしたが、なんとか証拠を集めました。長時間過重労働と上司からのパワハラを受けていることを突き止め、2011年5月、労災申請を出し翌年3月末付けで、長時間労働と上司のパワハラが原因だと認められ労災認定されました。
息子は、夜もないような繁華街で、競合店がひしめき合う中、成果主義の会社と上司のパワハラの狭間で、人件費を少しでも抑え売上をあげるため、自分が身を粉にして働かなければならない状況に追い込まれていました。上司のパワハラを受けながら、朝から深夜、時には朝方近くまで時間外労働を強いられていたのです。しかも亡くなる前、半年間の間休日は2日間、残業時間に至っては、多い月で227時間少ない月でも160時間働いています。これは、過労死ライン80時間の倍以上の労働時間数です。これはもう異常としか言いようがありません。毎日、売上や従業員たちの労働時間数など、本部に報告していますので、当然会社や社長は把握できていたはずです。しかしながら、何の策も講じず奴隷のような扱いをし、尊い命が蔑ろにされた結果、睡眠時間も減り体調を崩し精神疾患の病を発症し、自死してしまいました。実際にこんな酷い過重労働の実態があるのです。個人ではどうすることもできません。
我が子を喪うことは、大変に苦しく辛いです。息子に対し助けることができなかった自責の念と、息子に会いたくても会えないことが、何よりも辛いです。それと私たち夫婦の未来や希望までも奪われてしまったことです。私たちのような、辛い思いをする人たちが増えないようにと願い、遺族が声をあげ過労死・過労自死は他人事ではないのだと訴え、署名活動や院内集会など開いて活動して参りました。小さな声が徐々に大きくなり議員さんたちも賛同し、今年6月に「過労死等防止対策推進法」が成立したことは大変嬉しく思います。
しかし、これはあくまでも0地点に立っただけで、実効性あるものにするにはこれからが大変だと思います。昨今この厳しい労働環境のもと、若者の過労自死が増えています。企業の生き残りも必要だと思いますが、まずは命を一番に扱われる社会になってもらいたいですし、過労死・過労自死のない社会になることを切に願っています。
過労死防止法で若者守れ
―過労死等防止対策推進法施行シンポジウムの日に―
西垣 迪世 兵庫家族の会
私のたった一人の息子和哉は2006年27歳の若さで過労死しました。神奈川の大手電機メーカーIT関連子会社にシステムエンジニアとして入社2年目、日本初の地上デジタル放送システム開発プロジェクトに加わり長時間過重労働が始まりました。
1か月の時間外労働が100時間を超え、最高で150時間を超えた月もあり、時間外労働の月平均は97時間に達していました。仕事は朝9時から翌朝8時半まで続き、30分休んでその日も朝9時から晩10時まで、ほぼ37時間連続勤務の日すらありました。月の半分の終業時刻が夜中0時を越えた月もあったのです。
最終電車が過ぎてから退社しても遠く離れた寮までは帰宅できず、会社の机に突っ伏して仮眠し朝を迎えました。そんな中、上司だけがタクシーで帰宅していたそうです。息子たち若い社員は人間扱いされていなかったのです。
さらに、情報処理の高度な技術を持っていたため、まだ入社して間もないのに先輩と同様の重い責任を負わされていました。また、一晩徹夜して仕上げたプログラムが朝になるとゼロからのやり直しを命じられることもしばしばでした。仕様変更の連続だったため、何の為に徹夜して働いているのか分からない、強いストレスにさらされ、納期に日々追われていました。連続の徹夜作業に職場の二酸化炭素は基準値をオーバーしていたそうです。
息子はうつ病を発症し、休職復職を繰り返しましたが完治せず、薬を飲みながら働いていました。完治していないのに、再び朝までの勤務、達成不可能なノルマを課せられ、体調を悪化させ、治療薬を過量服用して亡くなりました。
自死か事故死か不明ですが、遺されたブログには「だるいです。働き過ぎです」「このまま生きていくことは死ぬより辛い」「もっと健康的に生きたい」とありました。人生これからというときに、懸命に働いた息子は何故、命を奪われなければならなかったのでしょうか。息子は多くの友人との時間を大切にしていましたのに。
懸命に育てた母の老後に愛する息子はおりません。明けない夜はないというけれどその朝に息子がいない、この母の苦しみは何を以て償われるのでしょうか。労災認定され企業と和解しても到底癒えるものではありません。
この少子化社会、求人難が訪れる中、これ以上貴重な若者を使い捨てしてはなりません。我が家の未来ばかりかこの国の未来が失われます。
過労死防止法制定を求めて、この三年余り、兵庫・東京・各地で、署名を訴え、意見書採択をお願いし、議員さんに要請を続けてきました。おかげさまで過労死等防止対策推進法が成立いたしました。
この法律が生きたものとしてこの国の隅々まで届きますように、若者が守られ、働くことによって命を落とすことのない社会、働く者も経営者も共に栄える社会になりますように、皆さまの力をお貸しください。
この世に受けた生を全うできずに永久の別れをしなければならなかった息子とこの母の願いが実現しますように!私も微力ながら兵庫でそして全国で引き続き働いてまいります。皆さま、共にこの国の働き方を変えてまいりましょう。
子供の成長は教諭の喜びでした。
尾崎 正典 静岡家族の会
私の姉は、平成12年、小学校教諭で過労自死しました。平成21年10月最高裁において災害基金側の上告棄却によって結審し、教諭の自死が公務による災害である事が確定しました。
姉は20年普通学級の教師をした後、養護教育の重要性に眼を開きその教育の成果に多くの喜びを児童の家族と共に強く感じておりました。2年目の養護担任の年度終わりの1月から2月にかけて養護学校相当の施設に法的措置(家庭での養育問題)で家庭から離し施設で養育中の児童を家庭に戻すこと及び地元の養護学級に入学が可能かを試す体験入学が行われました。福祉事務所、教育委員会、校長は児童が入学が無理であるということを証明するために体験入学を計画実行しました。元から破たんを予定した通り在籍児童ともに混乱と危険な状態に成りました。中止すべき状態が続き、混乱は頂点に達し学級は破壊状態に成りました。
姉は在籍児童を守るため懸命でした。なぜなら自閉症の児童は混乱の結果大きな危険が予想されたからです。姉は1年間大切に育んできた在籍児童が混乱し積み上げてきた指導内容の破壊を目にしました。もともと体験児童は在籍児童を長くいじめたことがあり誰が怪我をしてもおかしくありませんでした。2週間が過ぎ、親が入学希望が無理であることを理解して取り下げました。破たんを予測してそのために始めた体験入学が終わりました。親に無理だと説得するために学級は破壊されました。それだけでなく、姉はうつ状態に成り8月に闘病の末苦しい、苦しいと書き残し自死いたしました。災害基金は教育委員会等の危険な企画を隠ぺいする為最高裁まで争いました。10年後、事実を示した私たちが勝訴しました。
文書の提出枚数は2000枚を超えました。子供の成長は教諭の喜びでした。多くの本を読み指導を研究し熱心でした。回避することは出来る事でした。しかし無理やり危険を予測されながら実施して発生してしまいました。大変残念な事件です。人の精神に重大に影響を与える過労災害の危険はごく身近にあると知りました。叱責や恐怖、驚き子供を守りたい教諭にも子供のつらさと同じ恐怖を心に残すようです。災害の発生で見逃してはならないのは精神へのダメージであり精神への危険な行為の理解と対策ではないでしょうか。ごく身近にあるこのような危険をお互いに理解して相手に与えない事、又は少なくする工夫が求められます。災害に相乗作用のある長時間労働は形式ではなく明確で正確な評価方法で危険を回避されることが安全には不可欠で有ると考えます。もう一つ安全について考えるとき仕事への没入を回避することです。
過労死防止法の対策はかならず実効性あるものになると確信いたします。
いのちの尊厳を!
「過労死等防止対策推進法」に想いを寄せて
中野 淑子 東京家族の会
私は、11月1日付の東京新聞に紹介されました、東京過労死家族の会の中野淑子と申します。
私の夫は公立中学校の教員でしたが、1987年12月22日、2学期末の多忙な時期に学校内でくも膜下出血を発症し、こん睡状態のまま1月1日未明息を引き取りました。享年52歳でした。私も同僚も過労による死と確信し、地方公務員災害補償基金に公務災害申請をしました。
しかし、2年後に「公務外」と認定されました。主な理由は、“家でやった仕事は、校長が命令したものでないから、校務ではない”さらに、“家でやる仕事は、リラックスしていたであろうからストレスはない筈だ”というのです。これは、全国の教員の怒りに油を注ぐ結果となりました。なぜなら、家への持ち帰り残業は学校では到底終わらないからで、いちいち校長に命令されてやるものではないのです。審査請求をして、6回の口頭陳述や現場検証の結果5年弱でやっと認定されたわけですが、これは、当時教員の家への持ち帰り残業が認定された画期的なことだと聞きました。
持ち帰り残業の主な仕事は、3年生の進路指導資料、学期末の成績処理などを、自宅のパソコンで処理したことです。2学期末の12月、進路選択を控えて寝る暇もないほど忙しい担任に代わって、夫は事務的な仕事をしてあげていました。加えて、新任校は英語の教科担当と校務主任その他で公務分掌が非常に多く、“こんなに仕事が多くては、死んでしまうよ。でも1年間は我慢するか”と困惑した面持ちで話していましたが、赴任9か月で現実になってしまったのです。
発症する直前には、疲れはてて娘に手を引っ張られてやっと起き、朝食もとらずに出勤する有様、普段愚痴などこぼさない夫が“登校拒否の生徒の気持ちがわかるなあ”と漏らし、ぐったり椅子に崩れこむことが多くなりました。“あと2日頑張れば冬休みだ。自分を励まして行くかー”と言って家を出て、学校ではなく「あの世」に逝ってしまったのです。
こんな不条理なことがあるでしょうか。生徒のため教育のためにと、愛と情熱とを燃やして頑張った代償が過労死なんて理不尽すぎます。いのちの尊さを教える教師が、過労死なんぞすることが無いようにと、私は主に公務災害の方を担当して26年間頑張ってきましたが、いつも「ごまめの歯ぎしり」のような虚しい思いをしてきました。この度多くの方々の願いとご援助とが実り、悲願の「過労死等防止対策推進法」が制定され、やっと、スタート地点に立った思いで、長い道程を振り返り本当に感無量です。
今後は、この法律に魂をいれ、「過労死の無い社会」を目指して機能させていかねばなりません。広く皆様方のご支援を賜りますようお願いするとともに、私も微力ながら頑張ってゆきます。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。
「過労死」の起こらない社会を求めて
中原のり子 東京家族の会
亡夫・利郎は、都内の民間病院に勤務する小児科医でした。16年前の1999年8月16日、「少子化と経営効率のはざまで」と題した文章を執務机に残し、勤務先の病院から真新しい白衣に着替えて、身を投げました。享年44歳でした。
19年間、「小児科医天職」と言いながら懸命に働きました。周囲からの信頼も厚く、聖人君子という言葉は、先生のためにあるのですね、と評される人物でした。地域の子ども達のサッカーのコーチを務めるなど、地域にも貢献していました。
そんな彼が、小児科部長(代行)に就任したのは、亡くなる半年前のことでした。就任後、小児科医師の退職が相次ぎ、6人いた勤務医が3人に半減した結果、当直を含む勤務の負担が増えました。医師不足で後任の医師を探しましたが、補充は難しく、当直は月に8回に上る月もありました。当直後は憔悴しきった体を引きずるように帰宅。血圧が上昇し、痛風の発作も頻発し、ぐったりと横たわる姿が今も目に浮かびます。温厚な夫が過労のあまり感情のコントロールを失っていくのと同時に、激務を案じる私自身も、精神不安定になっていきました。
しかし、予想もしない夫の最期の姿に直面し、彼が書き残した「少子化と経営効率のはざまで」の文章を読んだとき、これが夫の苦悩の原点であるのならば、内容を社会に伝え、改善をはかることが自分の使命と考えました。
長い年月をかけて労災認定を勝ち取り、長時間・過重労働の実態を証明しました。15年前も、そして今もなお、医師の当直には労働性が認められていません。国民の命と健康を守るのが医者であるのに、彼らを守る法律がないのです。そうであるなら、法律を作ろうと決意しました。足掛け4年間、国会議員に遺族の声を届け、議員や社会に理解を求める活動に専念しました。「過労死」があらゆる分野、あらゆる職業に浸透し続けていている現実は目を覆うばかりです。多くの国民が「過労死」を明日は我が身!と恐れる現状を改善するには、国民を守る国の責務を果たす法律制定が急務でした。
ようやく成立した「過労死等防止対策推進法」に実効性を持たせることが、今後の課題です。
心を打たれた詩に出逢いました。かつて、アメリカ合衆国で人種差別撤廃に尽力したマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「私には夢がある」という演説を行いました。
過労死問題に置き換えてお伝え致します。
『友よ、私は今日皆さんに申し上げたい。
今日も明日も、いろいろ困難や挫折に直面しているが、それでもなお、私には夢がある。
いつの日か、この国が立ち上がり、この社会から「過労死」がなくなり、もう誰にもこの悲しみを繰り返させない。
その日まで、皆さんと手を繋いで行動しよう。
夫のように仕事で力尽き、社会に絶望し、命を絶つものがなくなるような社会を造ろう。
私には夢がある。』
思いを申し上げる機会を戴いたことに、心から感謝申し上げます。